西村佳哲さんインタビュー

#001 西村 佳哲さん

7. そのものになること

遠藤:今から10年前に西村さんが講演された「Designing World-realm Experiences The Absence of World “Users”(世界経験のデザイン_“世界”に“ユーザー”はいない)」 1についてなのですが、ここにすごく本質的なことが詰まっているように思うんです。この中に“「そのものになる」ことのデザイン”について言及されていますが、このことについて少しおはなしいただけますか?

西村:さっき、大人の子どもたちに対する関わり方には、大人の大人自身に対するかかわり方がそのまま投影されるんだっていう話をしましたけれども、別の言い方をすると、人間観とか人間理解っていうものがそこに投じられると思うんですよね。
人間とはどんな生き物か?っていうことを考えた時の答えの一つとして、「ナチュラルハイを求める生き物」であると思っている。ナチュラルなハイっていうのは、ドラッグを使わないハイってことです。僕らナチュラルハイって日常的にいろいろ経験してて、例えば学校でいうと、100メートル走を走った後の瞬間だとか、なんか力を出し切ったあとには、ナチュラルハイになる。

上野 圭一さんが『ナチュラルハイ』 2っていう本を書いてるんだけど、その中に、「ナチュラルハイっていうのはどういうことかっていうと、“何々をする”じゃなくて、“何々になる”ってことなんだ」と書かれている。例えば、ランニングハイだとか、トーキングハイだとか、いろんなナチュラルハイがあるわけですけれども、“自転車をこいでる”じゃなくて、“自転車をこいでいるになる”とか、“走ってる”じゃなくて、“走っているになる”っていう、その経験に丸ごと自分がなっちゃう時だと。あと、ナチュラルハイになる時っていうのは、自分が拡張されるっていうか、自分っていうものの範囲が広がる時だなと思ってるんです。僕らはどこまでが自分かっていうことを考えたときに、この指の先までが自分かって考えると、決してそんなことはなくて、例えば、凧揚げをしてる時は、その凧の先っぽまでが自分だし、自動車を運転してる時に、タイヤの先まで神経を持っていこうと思えば、ちゃんと小石を踏んでる感じが分かる。そういう時、ここまでだったはずの自分が、ちょっと大きくなる。
例えば、僕、サーフィンをするんですけれども、波乗りっていうと、波の上に乗っかってるって思われるんだけど、そうじゃなくてあれはね、“波に乗る”んじゃなくて、“波になる”なんですよ。大きな波全体に自分がなるんですよね。
そういうナチュラルなハイの楽しみを一番よく知ってて、それを日常的にやってるのが、子どもだと僕は思います。だから、遊びっていうのは、何かをすることじゃなくて、その遊びそのものになるっていうことだと思う。

  1. Designing World-realm Experiences. The Absence of World “Users”(世界経験のデザイン_“世界”に“ユーザー”はいない)」

  2. 『ナチュラルハイ—わたしを超えるわたし』上野圭一(著)、筑摩書房(刊)

Profile

西村 佳哲(にしむら よしあき) プランニング・ディレクター 1964年東京生まれ。武蔵野美術大学卒。 つくる・書く・教える、三種類の仕事。建築分野を経て、ウェブサイトやミュージアム展示物、公共空間のメディアづくりなど、各種デザインプロジェクトの企画・制作ディレクションを重ねる。 多摩美術大学をはじめいくつかの教育機関で、デザイン・プランニングの講義やワークショップを担当。リビングワールド代表(取締役)。全国教育系ワークショップフォーラム実行委員長(2002〜04)。働き方研究家としての著書に『自分の仕事をつくる』(ちくま文庫)、近著に「自分をいかして生きる」(バジリコ出版)がある。 リビングワールド以前の仕事「センソリウム」(1996〜98)は、オーストリア・Ars Erectronica CenterのPRIX ’97|.net部門で金賞を受賞。(プロジェクト・チームでの受賞。全体のマネージメントと企画・制作のディレクションを担当。 http://livingworld.net